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日本IBM時代に歩んだ異色のキャリアが今に生きる、東京都市大学・増田聡教授とソフトウェアテスト(後編)

日本IBM時代に歩んだ異色のキャリアが今に生きる、東京都市大学・増田聡教授とソフトウェアテスト(後編)

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JaSSTソフトウェアテストシンポジウムの実行委員になりたいです。既に実行委員だった同じ日本アイ・ビー・エム株式会社(以下、日本IBM) の先輩にそうメールをしたんですね。そうしたら快く迎え入れてくださって、いろいろな人たちとつながることができました。あのメールを送らなければ、おそらく今の私はなかったはずです」

現在、東京都市大学で教鞭を執る増田聡教授は、ソフトウェアテストの世界においてさまざまな役割を担うキーマンの一人だ。一例を挙げると、ソフトウェアテスト技術振興協会(ASTER)の理事や、ISO/IEC JTC 1/SC 7/WG 26ソフトウェアテスト・ワーキンググループの国際副幹事や国内主査などを務める。

今でこそソフトウェアテストのあれこれについて相談に乗る立場だが、かつて日本IBMでソフトウェアテスト担当になった際、増田教授も悩み、迷う側だった。ちょうどその頃に出会ったのが「JaSST」だった。うわさを聞きつけ、聴衆として参加。その後、運営に携わっていた前述の先輩にコンタクトを取って、仲間に入れてほしいと頼んだのが冒頭のエピソードである。

本稿では、増田教授の会社員時代を振り返り、ソフトウェアテストの世界に没入することになった経緯などをお伝えしていきたい。

日本語で書かれたソフトウェアテストの本がない

1991年に新卒で日本IBMに入社した増田教授は、主に自社の情報システムを保守・運用する社内IT部門に配属され、技術支援チームの一員となる。ここでは会計システムや物流システム、人事システムといった社内のさまざまな業務システムを技術的にサポートする業務に携わった。

「例えば、この開発方法論を使えば品質が高まったり、効率化を図れたりするといったことをアプリケーション開発部門に教えながら支援していました」

入社から10年ほどたった頃、今につながる人生の転機が訪れる。ソフトウェアテストに関する技術支援をするように命じられたのだ。実はその少し前、社内のあるシステムをバージョンアップした際に1週間ほど稼働しなくなるという“事件”があった。原因はさまざまだったが、その時に「きちんとテストはしたのか」という指摘が出た。

「それまで技術支援チームはソフトウェアテストを専門として、あまりやってはいませんでした。そこで、それを専門的に実行するチームにアサインされたのです」

当時これは日本IBMに限らず、ほとんどの日本企業においてソフトウェアやシステムのテストを専門的に対応するという発想がまだ芽生えていなかった。

グローバルで見ると欧米のIBMでは既にテスト部門が独立していて、専門の職種も存在していたため、そうしたチームと増田教授らは連携し始めることとなった。

「グローバル・テスティング・オーガニゼーションという世界中のIBMチームが参加する組織があって、年に1回集まってはソフトウェアテスト関連のいろいろな情報交換をしていました」

とはいえ、社外を見渡すと、国内においてソフトウェアテストに関する情報は皆無だった。日本語で書かれたソフトウェアテストの書籍は3冊程度しかなかったという。

「当時は日本で専門的にテストをやっている人がほぼいませんでした。本もないし、聞く人もそういない。本当に手探りで何かを学んでいくような状況でした」

一人もんもんと苦労していた増田教授の目の前に、一筋の光が差した。それが2003年に初開催となった「JaSSTソフトウェアテストシンポジウム」だった。

ビジネスのためではなく、業界のため

「シンポジウムの開催後にWebの記事で知ったのです。日本でもこういうことをやっている人がいるのだと。すごく気になって、翌2004年に聴講者として参加しました。いろいろな人の発表を聞いたのですけれど、自動化ツールやプロセス改善、ドキュメントを変えるなど、自分の悩みを皆さんも同じように抱えていることが分かりました」

増田教授はシンポジウムに参加しながら、自分もここで社内の取り組みを事例の一つとして発表できるのではないかと感じた。そして2005年、日本IBMのテスト専門チームの開発事例を紹介したのである。

シンポジウムの閉会あいさつで実行委員長の西康晴さんが「一緒にやってくれる人を探しています」と話していたのを前のめりで聞き、もっとこのコミュニティーに深く関わりたいと心が動いた。幸いなことに、日本IBMの先輩が実行委員だったため、メールを送って自身も実行委員会に加わった。

JaSST’06 in Tokyoにてセッション司会を務める

そこから20年近く活動を続けている。モチベーションは何だろうか。

「このコミュニティーで取り扱っていることは、直接利益になるわけではありません。でも、私も皆さんもビジネス目的でやっているというよりも、こういう活動が好きで、業界のためにという人が多いと思うのです。あるとき、シンポジウムの情報交換会に来た社長さんが、この規模のイベントをボランティアでやっているのは信じられないと驚いていました。そういう感覚を持った同じような人たちが集まっているから、けっこう居心地がいいのですよね」

研究職の道に

話を増田教授のキャリアへと戻そう。

テストコミュニティーに参加し始めて数年後に部門異動となり、社内IT部門から顧客のシステムを開発・保守するSI部門に。テストから離れてしまったと思っていた矢先、IBMはグローバル全体でソフトウェアテストのサービスに力を入れることになり、増田教授もそのサービスを展開するチームの一員になった。

また、この頃にはようやく日本でもテストを重視する風潮が生まれていた。そのトリガーになったのは、当時ニュースでも取り上げられた、日本企業の度重なるシステム障害だったわけだが……。2007年にIBMがソフトウェアテストに関するサービスを開始すると、国内大手IT企業も2010年にテスト専門組織を立ち上げた。

増田教授が所属するテストコミュニティーの参加者も一気に増え、メジャーな存在になっていった。

その後も日本のテスト業界は盛り上がりを見せていたが、日本IBMのサービス自体は2年ほどで新たなトレンドに取って代わられ、下火になりつつあった。そんな折、QA業界の大御所で、尊敬する大先輩から「博士号取得」を勧められる。

「これまでソフトウェア工学やソフトウェアテストに関わる仕事をやってきたのだから、それを論文としてまとめて、博士号を取ってみたらどうだと」

その言葉に従い、増田教授は筑波大学システム情報工学研究科の博士後期課程に社会人学生として進学、業務の空き時間で研究活動を行う。博士論文のタイトルは、「自然言語処理を利用したソフトウェアテストケース生成の研究」である。具体的にはどのような研究か。

「簡単な例で言うと、“年齢が12歳以下の場合は入場料金が800円、20歳以上の場合は2000円とする”といった、さまざまな機能が日本語の仕様書に書かれていて、そこからテストケースになるものを自動抽出する方法の研究です。ソフトウェアの仕様書を自然言語処理技術で解析して、『デシジョンテーブルテスト』という条件と動作の記述からテストケースを作成する技法を活用し、それに当てはめてテストケースの作成を自動化することが博士論文の研究テーマでした。指導していただいたのは自然言語処理やアルゴリズムが専門の教授で、私のそれまでのソフトウェアテストの知識と合わせて研究を進めたという感じです」

博士課程を取得するために大学に通うのと並行して、社内キャリアの変化もあった。それはIBM基礎研究所に異動したことだ。

「テストに興味がありましたし、まだまだ続けてみたいと思っていました。社内で相談した結果、本当に運よく基礎研究所へ移ることができました。当時の基礎研究所所長が多様性を重んじる人だったことが大きいです。修士号や博士号を持った人だけが入ってきて、ずっと研究しているような組織ではなく、私のようなアプリケーション開発・保守をやってきた人間など、いろいろなバックグラウンドの人がいて、それで成果を出すような組織にしたいと考えていたようです」

2014年に異動し、ソフトウェアエンジニアリングのチームに配属となった。当時はマイクロサービスやAPI(Application Programming Interface)がトレンドだったため、増田教授もいろいろなAPIをつなげて新しいアプリケーションを作る、いわゆる「マッシュアップ」や、それをどのように効率化するかなどを研究していた。

とはいえ、好き勝手に研究するわけにはいかない。会社である以上は、あくまでも事業利益になる研究が大前提である。

「その頃は『IBM SMARTER PLANET』を掲げていて、地球規模で環境や交通、電力などをスマートに賢く使っていきましょうと提案していました。それに貢献するような技術を開発しなさいというのが研究所に課せられたテーマでした」

増田教授が具体的に取り組んだ一つが自動運転のテストである。周囲を走る車両も含めて、いかにして自動運転車が安全に走行できるか、そのための組み合わせテストを担当した。これも自動車関連会社からの依頼だった。基本的には顧客の課題やニーズをベースに基礎研究所でその知見を深めていたのである。

教えることの意義を感じた

ここで再び前述のQA業界の大先輩が登場する。

「無事2017年に博士号を取って、基礎研究所でも先ほど言ったような研究を進めていました。その時にその大先輩から連絡があって、大学の非常勤講師を代わりにやってくれないかと」

ただ、最初は乗り気ではなかった。

「つい引き受けてしまったのですが、これがかなり大変でした。週1回、90分の授業を全部で15回やるのに、教材などの準備時間はその3〜4倍はかかる。週の半分ぐらいはこの作業に費やしていました。手間の割には非常勤講師のバイト代はそれほど良くないし(笑)。もちろん、それが目的だったわけではないのですけれどね」

ところが、増田教授の意識を変える出来事が起きた。

「ある日、授業が終わった後に物静かな男子学生が私の所にやってきて、いろいろと質問してきたのです。それに対して、こういう風に考えて進めてみたらと答えると、その学生の顔がパッと明るくなったのです。まるで開眼したように。その様子を見て何かしらの影響を与えられたのかなとうれしく思いました。それと同時に、教えるということの意義を感じました。そこからですね、教員に興味を持ったのは」

教えることの意義を感じたこと。ただし、それだけが教員という仕事に惹かれた理由ではなかった。このままの会社員人生でいいのかという葛藤もあった。年齢は50歳に近づき、今後のキャリアを考えたとき、ずっと日本IBMにいるのか、他社に転職するのか……。その選択肢の一つに大学教員もあると思うようになった。

「IT企業でまだ経験していないこともたくさんありますが、ある程度はやったかなと満足した感じもありました。その後も自分の経験や能力を生かしていくのに、引き続き企業で働くという道がある一方、大学教員というのもありかなと」

そんなことも考えつつ、2018年ごろから大学教員の公募サイトをチェックしては、条件と合致する案件に応募するようになっていった。そして2021年、晴れて東京都市大学の教員になった。

前編でも触れたように、増田教授は今が充実していて、日々やりがいを感じている。第2の人生を全うしていると言ってもいいだろう。そろそろ趣味のロードバイクも再開したいようだ。

「コロナ禍前はロードバイクの『ブルベ』をやり始めたところでした。フランス語で認定という意味のブルベは、規定距離を制限時間内で完走するのが目的です。コース途中にはイベントの係員などはいなくて、自己管理でチェックポイントを回ります。そのイベントで200キロとかを走っていましたね。だからトレーニングのために週末に河川敷を往復100キロなんてこともよくありました」

最近は忙しくてなかなか時間が取れないことに加えて、通勤も遠くなり、週末は疲れてしまうと増田教授は苦笑する。とはいえ、空き時間があれば近所のジムで鍛えていて、体形を維持している。

大学に勤めて3年がたち、今年の春には初めての卒業生を送り出した。今後はOB/OGが増えてきて、どんどんゼミも大きくなる。増田教授の楽しみはまだ尽きないことだろう。

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