キャリア

【連載】冒険者の地図:高卒エンジニアからメガベンチャーのリーダー職に、国内屈指のQAエンジニアに上り詰めた河野哲也さんの逆転人生(前編)

株式会社ナレッジワークEngineering Unit - QA Group / QA Engineer河野哲也さん

工業高校卒業後、日本無線に入社、ハードウェアの品質管理に従事する。その後、電気通信大学夜間主コースに入学、ソフトウェア品質保証・テストを専門とし博士課程まで進学する。博士号取得後、2011年日立製作所に入社し、ソフトウェアのQAエンジニアのキャリアをスタートさせる。2017年ディー・エヌ・エー、2021年メルカリ、2023年ナレッジワークに入社。全てQAエンジニアとして従事する。著書『QA・テストがモヤモヤしたら読むITスタートアップのためのQAの考え方 (内製化失敗編/内製化成功編)』という2冊のシリーズをKindle版で出版。博士(工学)。

日立製作所、ディー・エヌ・エー(DeNA)、そしてメルカリ——。

誰もが知る社名がずらりと並ぶ。これは、今や業界内で一目置かれる存在であるQA(Quality Assurance:品質保証)エンジニア、河野哲也さんの職歴である。

これだけを見ると、いかにもエリート的で、さぞかし輝かしいキャリアを歩んできたように思えるかもしれない。しかし、河野さんの現在に至るまでの道のりは、平坦とはほど遠いものだった。

「地元・福岡の高校を卒業し、都内の会社に就職しましたが、下働きのようなエンジニアでした。しばらくして夜間の大学に何とか合格したものの、勉強についていけず、入学からわずか2週間で中退の文字が頭をよぎりました」

誤解を恐れずに言えば、“底辺”からの逆転人生。しかし、そうようなたたき上げのキャリアを築いてきた河野さんを敬い、慕う人たちは多い。いかにして河野さんは今のポジションをつかみ取ったのだろうか。彼の足取りをたどった。

学業はトップ10以内をキープ

1976年8月、福岡県で生まれた河野さんは、家具職人だった父親の影響もあって、小さい頃から手を動かしてモノを作ることが好きだった。そこからメカニックの方に目が向き、電気回路やプログラミングにも興味を持った。

さも当然といった流れで、地元の工業高校へ進んだ。入学するとすぐに勉強に精を出す。それには理由があった。

「成績のいい順から就職先を選べるというのが分っていたので、良い成績を取って、自分が行きたい会社を選ぼう」と。

これは特段、河野さんだけがつかんでいた情報でも何でもなく、当初から先生が生徒たちに伝えていたことだった。しかし、同級生たちはあまり勉強に身を入れていなかったこともあり、河野さんは最初の試験で上位の成績を獲得。以来、ずっとトップ10以内をキープし続けた。

他方で、部活動にも熱心に取り組んだ。テニス部の団体戦で県大会に出場したこともある。「ちなみに、個人戦は?」と聞くと、「同じ地域に日本一の柳川高校がいたので、とても無理ですよ」と河野さんは苦笑いする。余談だが、柳川高校は松岡修造さんなど多くのテニスプレイヤーを輩出する名門校で、河野さんの高校時代は、全国高校総体(インターハイ)と全国選抜高校テニス大会(センバツ)で2年連続の全国制覇を成し遂げている。

絵に描いたような文武両道の河野さんだったが、大学進学という選択肢はなかったのか。

「家庭がそんなに裕福ではなかったので、大学に行くのは難しいだろうなと。高卒で就職して、エンジニアや技術者になって生計を立てていくのだろうと、中学生の時には何となく思っていました」

高校3年になり、就職先の検討が具体化する中、学校に送られてきた求人票の中から、先生と相談して決めたのが日本無線だった。理由は、東証一部上場(当時)という大きな規模の会社であることに加えて、夜間に大学へ通える社内制度があったから。河野さんは、いずれ仕事に慣れて経済的に自立できるようになったら、大学に行きたいという目標を持っていた。

そして、18歳で故郷を離れ、東京都三鷹市にある日本無線の事業所へ勤めることとなった。1995年春のことである。

働きながら大学に通うが……

配属されたのは、ハードウェアの品質管理を行う検査部だった。例えば、電気回路が設計通りに作られているかを管理したり、間違って付けられたチップをハンダ付けし直したりと、「QAエンジニアと言ってもいい」(河野さん)仕事内容だったという。

入社して3年ほど経ち、ある程度サラリーマン生活も落ち着いたタイミングで、河野さんは大学受験の準備をする。ただし、行き先は限られていた。

「消去法ではないけど、仕事をした後に通学するので、なるべく会社や家から近い学校が条件でした。もう一つ、お金を使いたくないから、自転車で行けるところ。最も近くて、かつ国立大学というと、電気通信大学に絞られました」

ところが、意気揚々と入試に臨むも不合格に。翌年には無事リベンジを果たして、電気通信大学のシステム工学科に入学する。

いざ入ってみると、いきなり高い壁にぶち当たる。学内実力試験の問題がまったく解けなかったのだ。

「入学してすぐに実力試験があるのですが、白紙で出したんです。問題が配られて、見ても全然分からなかったので、寝ていました。先生に『君、やる気あるのか?』と言われて、『やる気はあるけど、問題を見ても分からないから解けません』と答えました。微分積分の記号や、行列の四角形に数字が並んでいる意味が分からない、そういうレベルでした」

当然、授業にもついていけない。せっかく合格した以上ベストは尽くしたいと思っていたが、歯が立たなかった。母親にも電話で「勉強についていけないから、半年で大学を辞めることになると思うよ」と話していたそうだ。

出社前に数学を猛勉強

その窮地を救ってくれたのが、親族だった。同じ電気通信大学に通っていた2学年上の従兄弟に相談をして、授業でつまずいているところを見てもらうと、「数学III」の知識がないことを指摘されたのだった。工業高校ではカリキュラムに入っていなかったのである。

「授業が分からないのも無理ないよねと、従兄弟は実家から高校の数学の教科書を取り寄せてくれました」

そこからが河野さんの人並外れたところだ。もらった教科書や参考書を見ながら、毎朝5時から8時まで勉強した後、出社していたのである。

他の学生にとっては高校の復習にすぎないが、河野さんはその後れを取り戻すべく必死に勉強した。次第に微分積分や行列の意味が分かってきて、ある日突然、大学の授業がスラスラと理解できるようになった。そこからは自力でどんどん前進していった。逆に、他の学生の多くは「高校の復習だ」と軽んじていたため、途中からついていけなくなっていた。

半年後、河野さんは同級生に完全に追いつき、追い越した。1年生が終わる頃には、クラスでトップの成績を収めていた。とても入学後2週間で中退すると言っていた人物と同じとは思えない。

さらに河野さんの飛躍は続く。3年生になると専門領域の学習に入ってくる。そこで社会人学生の力がいかんなく発揮されたのだ。

「電気回路や品質管理の授業は、日頃の業務でやっている内容そのものでした。例えば、『QC7つ道具』を使ってケーススタディのレポートを書きましたが、先生よりも詳しい知識がありました」

また、河野さんが面白いと感じたのは、数学の理論を学ぶことで、普段の仕事で使っている計測器の波形がなぜそう見えるのか、本質的な意味が分かったことである。

「単純に数学の授業を取っているだけじゃなくて、その授業がどのように業務や産業界で役に立つのか、身をもって体感できました」

4年生になると、電気通信大学の学生は研究室(ゼミ)に所属することとなる。ここで河野さんのその後の人生を変える、運命的な出会いがあった。

恩師との出会い

「泳ぎ方が分からないのに、海に落とされている感じ。もうあの頃には戻りたくないですね」

インタビュー中、終始クールだった河野さんが、少々狼狽した表情で振り返ったのが、約8年間を過ごした西康晴研究室のことである。

西先生は、QA業界を代表するソフトウェア品質保証の専門家。電気通信大学で開講した研究室の1期生として、河野さんはその指導を受けることになる。

この研究室との出会いは偶然だった。大学を卒業するタイミングで日本無線を退社しようと考えていた河野さんは、大学の教授や講師など十数人にキャリアの相談をした。ほとんどが「辞めるべきではない」という回答だったのに対し、2人だけが河野さんの意見に同調してくれた。その1人が西先生だった。

「自分のところに来れば、どうにか仕事ができるくらいの技術は身に付けさせてやると言ってくれました。それが何なのか、当時はよく分かっていなかったけど、その言葉を真に受けました」

相談した時にはまだ、西先生は電気通信大学の講師ではなく、第三者検証サービス会社のコンサルティング部門長だった。河野さんが4年生に上がる4月にちょうど大学に着任予定で、研究室も開講するという絶妙なタイミングだったのである。「この先生なら……!」と河野さんは西研究室の門を叩いた。

しかし、そこで待っていたのは、想像を絶するハードな日々だった。「単体テスト」を研究テーマに掲げていた河野さんだったが、ついこの間までビジネスの最前線でコンサル業務に当たっていた西先生の下、厳しい指導を受ける。その時の過酷さが上述のコメントに滲み出ている。

「今の自分だったら、こう泳げばいいんだよとアドバイスはできるけど、当時は泳ぎ方なんて分からないから、もがくしかありませんでした。人生の中でもあれほどきつかったのはあまりないです」

ただし、この時の体験が今でも大いに生きている。

「僕らのような厳しい研究室に入らなければ、先輩が手取り足取り教えてくれたり、場合によっては先生が研究テーマの詳細まで設定してくれたりします。そうすると、自分で課題を見つけて、解決する経験をせずに社会人になるわけです。ところが、実は社会人になってもそういった訓練を受けずに手厚くサポートされていると、課長や部長になって大いに困ります。なぜかというと、マネジャーは組織の中の課題設定をきちんとやらなくてはいけないから。実はそれができていない社会人は多いですよ」

学部時代、修士課程、そして博士課程でも、ずっと溺れて、もがいていたと河野さんは言う。それでも西研究室を離脱しなかったのはなぜだろうか。

「僕は諦めが悪いんですよ。諦めが悪いし、性格的にしつこい。それだと思う。大学に入ってすぐ授業についていけなくなったとき、諦めのいい人は中退しているはず。ただ、僕は執着心があるから、それで持ちこたえています。ドクターでも、普通は3年経って箸にも棒にも掛からなければ辞めていますよ」

もう一つ、河野さんが残り続けた理由がある。それは西先生に対する義理だ。大学を卒業して日本無線を退社した後、生活の経済基盤となる仕事を世話してもらった。博士課程に進む際にも、いろいろと工面してもらった恩義がある。

結果的に計11年間、電気通信大学に通った。そこで鍛え上げられた河野さんは、そのままアカデミックの道に進むのではなく、ビジネスの道を選択することとなった。

大学には残らず再び民間企業へ

このキャリア選びにも、2人の人物のアドバイスがあった。

1人は、博士課程の時に仕事をしていたデバッグ工学研究所の代表を務める松尾谷徹さん。松尾谷さんはNEC出身で、QA業界の重鎮である。河野さんは鞄持ちのような役割を担っていて、一緒に営業同行したり、戦略会議に同席したりしていた。そこで松尾谷さんの凄みを肌で感じた。

「コンサルタントとして、松尾谷さんには絶対にかなわないと思いました。その理由を探っていくと、彼は会社の仕組みがよく分かっていました。職場の課題を解決するためには、組織の中のポジショニングがどうとか、会社の派閥がどうなっているとか、そういうことを理解している必要があります。それが分からずに、このツールを入れましょう、新しい技術を入れましょうといっても全く解決しません」

河野さんは続ける。

「もう一つ、会社の予算がどうやって捻出されているかとか、どこにアプローチすれば落ちやすいかとか、そういう事情も松尾谷さんは詳しかった。その姿を見て、大学に残るよりもゼロから大企業で仕事をした方が、将来性があるだろうなと感じました」

キャリア選びに影響を与えたもう1人が、元ソニーで、ソフトウェアテストの第一人者である高橋寿一さんだ。高橋さんにもドクター時代に相談をしたとき、開口一番、「お前は面倒くさいやつだな」と指摘されたという。どういうことだろうか。

「高橋さんには、就職するなら選択肢は1つで、誰に聞いても名前を知っている会社に行けと言われました。大きな会社で3年も仕事をすれば、周囲は『○○社の河野さん』と見てくれる。でも、誰も知らない会社で3年間仕事をしても印象は薄いから、その前のキャリアを説明しないといけない。僕のそのキャリアが面倒くさいというわけです。だから、大企業の肩書きを得なさいと」

河野さんはその助言に従い、就職先を誰もが知っている大企業だけに絞った。ただし、正面から飛び込んでもそう簡単に事は進まないかもしれない。そう考えた河野さんは、一般の選考ルートとは別に、これまでQA界隈のコミュニティで知り合った大企業の人たちに直接メールを送って、採用の可能性を打診したのだった。その結果、日立製作所からの内定を勝ち取った。

「採用枠がないけど、人事部と相談しますと言ってくれました。スマートなやり方ではなくて、足で稼いで、無理矢理こじ開けました。今思うと、即戦力ではないのに、よく採ってくれたと思います」と、河野さんは感謝する。

大企業で身をもって体験した組織の論理

再び正社員として企業勤めすることになった河野さんは、日立製作所で初めてソフトウェアのQAエンジニアという仕事に就く。ただし、担当領域はストレージ管理ソフトをはじめとするミドルウェア。一般のユーザーが使わないような製品レイヤーのQAを任されたため、業務に何とかついていくのがやっとだった。

「いかんせん実務経験がないし、教えられながら仕事をするポジションでもありませんでした。四苦八苦しながら、何とか自分で泳いでいました。しんどかったですね」

他方で、活躍の場を見いだしたのが、職場改善に関するワーキンググループだった。現場の社員たちを巻き込んで、テスト設計コンテストに出て優勝するなどしたことで、社内での認知度は上がっていった。

日立製作所にはトータルで6年弱在籍したが、最後までコアな業務は悪戦苦闘したそうだ。けれども、ソフトウェアのQAエンジニアとして一通りの実務を経験し、技術を習得できたのは、河野さんのキャリアにとって大きな財産だった。

もう一つの収穫は、大企業で働くことで、組織の論理について身をもって知ることができた。例えば、チームの雰囲気が悪くなったとき、どうすれば解決の糸口をつかめるのか。あるいは、メンバー同士が円滑なコミュニケーションを取れるチームをどう作ればいいのか。目の前で起きていた数々の出来事を反面教師にすることで、河野さんは職場改善のノウハウを学んでいった。

入社から6年が過ぎ、当初の目的はある程度果たしたと確信した河野さんは、転職を決意する。できれば日立製作所のような企業とは真逆の組織に身を置きたい。そう考えた河野さんが選んだカードは、国内有数の規模を誇るインターネット企業でありながら、いまだベンチャー気質も残るDeNAだった。

(後編に続く)

株式会社ナレッジワークEngineering Unit - QA Group / QA Engineer河野哲也さん

工業高校卒業後、日本無線に入社、ハードウェアの品質管理に従事する。その後、電気通信大学夜間主コースに入学、ソフトウェア品質保証・テストを専門とし博士課程まで進学する。博士号取得後、2011年日立製作所に入社し、ソフトウェアのQAエンジニアのキャリアをスタートさせる。2017年ディー・エヌ・エー、2021年メルカリ、2023年ナレッジワークに入社。全てQAエンジニアとして従事する。著書『QA・テストがモヤモヤしたら読むITスタートアップのためのQAの考え方 (内製化失敗編/内製化成功編)』という2冊のシリーズをKindle版で出版。博士(工学)。

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