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【連載】蔵前の珈琲豆屋がソフトウェアテストから学んだこと:勤め上げるはずだった会社を辞めてまで、私が起業した理由(第1回)

【連載】蔵前の珈琲豆屋がソフトウェアテストから学んだこと:勤め上げるはずだった会社を辞めてまで、私が起業した理由(第1回)

みなさま、こんにちは!

縁の木(えんのき)」の白羽玲子と申します。2014年から東京都台東区の東側、蔵前で珈琲豆屋を営んでいます。また、2019年からは地域ぐるみで取り組む地域資源循環プロジェクト「KURAMAEモデル」を主宰し、さまざまな商品開発をしてきました。

蔵前は近年、「珈琲の街」として知られるようになりました。徒歩15分四方の小さな街には自家焙煎店が6店と、30軒以上のカフェがひしめきます。ものづくりと問屋の街でもある蔵前は、「専門性のあるショウルームを兼ねたカフェ」「名のあるメーカーさんの試験的なお店」も多く、フランチャイズ店よりも個性あふれる小さなお店がたくさん並んでいるのも特徴です。

……とまあ、蔵前の良さは話し出したらキリがありません。そんな街で珈琲豆屋を経営する私がなぜ「HQW!」でコラムを執筆することになったのでしょうか。実はかつてIT業界に身を置いていて、当時の仕事仲間だった大西建児さん(現ベリサーブ テスティング・エバンジェリスト)から「白羽さん、コーヒーについて書いてみない?」とお声がけいただいたのがきっかけでした。

その後、打ち合わせをする中で、担当編集者が私のキャリアや地域活動にも関心を持ってくださったので、少し幅を広げた内容でコラムを書いてみることにしました。

さて今回は、私の簡単な自己紹介と、珈琲豆屋になるまでの足取りをお伝えします。

茅ヶ崎でのびのびと育つ

私は、旧姓白羽、結婚して名字が伊藤に変わりました。エゴサーチしてみても旧姓はとにかく珍しく、たくさんの方に「シラハ」として知っていただいたこともあって、今でも旧姓で働いています。

ベビーブーム最高潮の1971年生まれ、出身は神奈川県茅ケ崎市です。今でこそすっかりサーフィンスポットなどで有名ですが、私が生まれたころはひっそりとした郊外の住宅街で、ちょっと歩けば畑も漁港もある、そんな街でした。一人っ子で、祖母と両親が働いていましたので、私の遊び相手と釣り仲間はもっぱら母方の祖父。彼は証券会社を親から承継し、ぼっちゃん経営で乗っ取られたなかなかの豪傑でした。浮気性で、ひどくいい加減でしたが、人好きで実によくモテた、今でいうところのイケオジでした。

祖父はよく庭で、七輪で火をおこし、コーヒー豆を焙煎したり、釣った鯵やうるめいわしを焼いたりしていました。そして庭に太めの管を埋め、中にコーヒーかすや魚の骨を捨てて堆肥にしていました。40年の時を経て、孫が珈琲豆屋になり、生ごみの堆肥化に取り組んでいるとは彼も予想していなかったに違いありませんが、丁寧にものづくりをすること、最後まで慈しむことを間近で見て育ったことは、私の今に大きな影響を与えています。

そんなのんきな子ども時代を過ごし、大学では大好きな歌舞伎を学びに国文学を専攻しました。この頃、夫とも同じゼミで出会い、仲の良い友だちになりましたが、お互い集中力がない性格のせいか、結婚は30歳を過ぎてからになりました。そのまま研究職に進みたい、とも考えましたが、ちょうどその頃48歳の父に大腸がんが見つかり、早めにお金を稼げるようになった方が良いかなと、就職活動を始めました。

時は1994年。前年にバブル崩壊が始まり、就職は困難を極めましたが、たった1社、大日本印刷株式会社の内定を頂くことができました。配属先は市谷事業部といって出版社をお客様とする営業部署。長く続くB2B営業人生の始まりでした。

大日本印刷で7年間、まだまだ女性の働き方が定まっていない中での昼夜二交代制工場や不夜城の出版社とのやりとりは、いいことも悪いこともありましたが、実に楽しかったです。「このまま勤め上げちゃうなあ、私」と思い始めていたころ、闘病していた父に肝臓がんが再発し、今回はもう手の施しようがない、ということになりました。茅ヶ崎の家族を養うお金と、土日に実家に帰る時間を手に入れることは、今のままでは困難と考えて、もう少し柔軟な働き方ができる環境を求めました。そしてその翌年、IT系の出版社である翔泳社に広告営業としてお世話になることになりました。

ソフトウェアテストとの出会い

ITの「I」の字も知らずに日夜原稿を抱えて印刷工場を走り回り、寝袋でぐうぐう寝ていた人間が、ITと周辺技術の今を読み解く専門雑誌「DB Magazine」と、「Visual Basic Magazine」の広告営業を担当することになりました。とにかく業界地図を頭の中にたたき込むために、社内でもクライアントさんにも質問ばかりしていた記憶があります。

同じ時期、広告営業先の分野としての「ソフトウェアテスト」と出会いました。

私は当時、「ソフトハウス」「コンポーネントベンダ」と呼ばれる、決して大きくないけれど専門的な技術を持つ企業を担当することが多かったので、「テスト」「自動化」「品質改善」「ALM(Application Lifecycle Management)」といった言葉とすぐになじみ深くなり、知れば知るほど、「これは、とてつもなく地味だけど一番大事になってくる分野だなあ」と感じるようになりました。

当時、組み込みソフトウェア開発のコミュニティで有名な二上貴夫さんや開発ツールベンダーで活躍されていた藤井等さんに、たくさん時間を割いてソフトウェアテストという業界や意義について教えていただいたのを覚えています(その節はとんちんかんな私に、よく付き合ってくださいました。ありがとうございました……)。

2003年、入社4年目のこと。翔泳社では、目まぐるしい技術の変化を常に学んでいるのにスポットが当たりづらく交流の場も限られていたプログラマーが、業界や所属を超えて集まれる知識の場として、今も続くイベント「Developers Summit」の企画が進んでいました。2004年1月末に第1回の開催を目指し、イチから企画を作り、媒体としての広告設計をする場に営業の一人として参加することができたのは今でも大きな財産です。

当時の上司、岩切晃子さんのご縁で、第2回目の開催を控えていた「JaSST(ソフトウェアテストシンポジウム:Japan Symposium on Software Testing)」と共催できることになり、基調講演としてなんと、ソフトウェア工学の大家、トム・デマルコ氏を招聘することに。さらには大西さんやITアーキテクトとしてご活躍され、JaSSTの実行委員だった榊原彰さん、ソフトウェアテストのコミュニティを主宰され、JaSSTの実行委員長だった西康晴さんとたくさんお話しして、ソフトウェアテストの潮流を学ぶことができました。

「品質保証」は、印刷業界が長かった私にとって「五感での検査と経験に基づく属人的な世界」でした。「あの人、よく勘付くよねーーー」的な。それを仕組み化し、誰でも品質を保てる世界へ転換する可能性をもたらすソフトウェアテストに、プログラミングができない私もワクワクしました。

その後、起業した縁の木の運営の中で、各プロジェクトを「それぞれの役割をプロフェッショナルが果たし、全体をマネジメントする人間も含めて多様なチームで取り組み、実現することができるはず」と考えるようになった基礎は、言わずもがなDevelopers SummitとJaSSTでの経験に起因すると今でも思っています。

翔泳社でも14年、一貫してB2B営業でした。大好きな会社で、ここでもまた「今度こそ、このまま勤め上げちゃうんだなあ、私」と確信していました。父が長い闘病の末に亡くなり、結婚し、2度の出産。まだ産休や育休、子育てしながらの営業の働き方が定まっていない時代の中で、翔泳社にはよく面倒を見てもらいました。

さて、このまま翔泳社人生を全うしていれば、縁の木という珈琲豆屋は誕生しません。一体、何があったのでしょうか。多くの方の価値観や人生に変化をもたらした東日本大震災が起きた2011年、私の眼前にも大きな山が待ち構えていました。

息子の障がい、そして母の急死

長男坊に比べてむしろ育てやすい子どもだった次男坊を最初におかしいと感じたのは、いつまでも自分の名前を覚えない、うなずきがない、両親の顔を覚えていない節がある、など、単なる「言葉が遅い子ども」とは違うと自覚した場面でした。

「耳が聞こえないのでは?」と耳鼻科に行き、検査を受けたら「精神科に行ってください」と言われました。母と2人で本郷にある心の病院に駆け込むと、知的障がいを伴う自閉症の疑いが濃厚です、と診断を受けました。

驚きつつも診断から3カ月間は、療育(コミュニケーション訓練をする場)の申し込みや障がい者サービスの受給申請を忙しくしていました。そんなさなか、茅ヶ崎に一人で住んでいた母と突然連絡が付かなくなりました。午後半休を取って実家に帰ってみると、彼女は椅子に座ったまま亡くなっていました。たった1日、熱があってちょっと頭が痛い、と言っていただけなのに、実は脳内出血が3カ月ほど前から少しずつ広がっていたのです。そのことを解剖した先生に伺い、次男坊の診断を聞いた母の心労を思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

そこからは記憶が飛び飛びなほどよく動き回りました。気付くと相続や名義変更を終わらせていましたが、私の心には2つの不安が刻まれていました。

「遅かれ早かれ、親は先に死ぬんだ」という事実。

そして、「知的障がいのある子どもは親が死んだらどうやって生きていくんだろう?」という疑問です。

仕事や子育ての合間に調べれば調べるほど、親亡き後の知的障がいのある人の生活には地域とのつながりが重要と感じました。また、現在の福祉制度では住む場所を作るよりも働く場所のバリエーションを増やすことが難しいこと、現金を遺すよりは手に職と働く場があった方が良いということも理解できました。

これが勤め上げるつもりだった大好きな会社を辞め、「障がいのある人の仕事に多様性をもたらし、工賃(収入)を少しでも上げることができる」事業を立ち上げよう、と考えたきっかけです。

日本ではこれから子どもが減り、人口が減る一方で、障がいを持つ人の比率はむしろ増加傾向にあるとも感じていました。

「国家財政が厳しくなれば、補助金や助成金に頼る仕事はいつか成り立たなくなるかもしれない」

そう考えてNPO法人や福祉法人ではなく、株式会社を作りました。最初は厳しいけれど、いつかは適正な利益を出し、企業や個人に価値を認められて購入いただける商品を創造する。その輪の中に障がいを持つ方たちの仕事を加えていきたいと考えました。

そして多くの人に支えられ、助けられて旧暦の新年、2014年2月4日に株式会社縁の木を起業することができました。振り返れば大好きだった会社を退職したのは、1回目は父の発病、2回目は次男坊の診断と母の死が転機でした。人生分からないものですね。

次回は、縁の木が日々向き合うコーヒーのこと、福祉事業所のことなどをお伝えしたいと思います。お楽しみに。

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