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【連載】QAの変遷を語る: NARAコンサルティング・奈良隆正氏「日本のソフトウェアテストの幕開けとなった大阪万博の記憶」

NARAコンサルティング代表奈良隆正さん

1962年、株式会社日立製作所・日立工場入社。主に電機(回転機系)の検査と設置・試運転を担当。1965年、コンピュータ部門に異動し、ソフトウェア品質保証業務に従事した。第三者検証の技法と品質評価技法の開発など、ソフトウェア品質保証体系の基礎を確立した。1985年に情報システム開発部門に異動し、ソフトウェアテスト技法の開発と普及、ソフトウェアプロセス改善の推進、プロジェクトマネジメント技法の開発と普及を全社同時並行で展開した。1999年に関連会社に転属、2007年に退社。NARAコンサルティングを立ち上げ、ソフトウェア開発のコンサル業務を推進している。

突然コンピュータの世界に……

――キャリアの大半を日立グループで過ごされました。

1962年に株式会社日立製作所(以下、日立)に入社しました。最初は日立工場(茨城県日立市)に配属となり、発電機やモーターの検査を担当していました。当時の日立工場は超成長期で、私が入った年は工場全体で2000人ほど新入社員を採用しましたが、1964年の「東京オリンピック」後に大不況が来まして……。工場は人が余ってしまい、リストラを考えなければならない事態に陥りました。

ちょうどそのころ日立のコンピュータ事業は黎明期で、多忙を極め、多量の人的リソースを必要としていました。1964年にはコンピュータ事業部が立ち上がり、翌年、私は突如、そこへ異動となりました。

 

後から考えると、多少なりとも制御系システムを分かる人材が必要だったから選ばれたのだと思いますが、高校の電気科を卒業して、モーターや発電機を廻すのが好きでこの会社に入社したのに、コンピュータの世界、しかもソフトウェアの世界に放り込まれることになって戸惑いましたね。しかも私の場合、初の大規模プロジェクトに参加して北九州に長期出張中のある日、理由も告げられないまま、上司から「帰ってこい」と呼び戻されて、そのまま異動ですから。

1965年5月に日立工場へ戻り、3カ月間研修を受けました。当時は社内の事務管理部に日本アイ・ビー・エム株式会社(以下、IBM)のコンピュータが2台と、日立の「HITAC 3010」が1台ありました。昼間は実業務で使えないので、みんな午後から出てきて夕方から夜間にかけてマシンを触るわけです。

そして8月にコンピュータを製造する、横浜市戸塚区の神奈川工場に転属となりました。配属先はソフトウェア開発部ソフトウェア管理課でした。

――具体的にはどのような仕事を?

ソフトウェアのテストですね。その頃はまだソフトウェア開発といってもOSが主体でした。アプリケーションは基本的にお客様が作るという時代でした。最初に担当したのは「HITAC 5020」という日立独自の32bitバイナリーマシンのOSでした。

その後に日立は「HITAC 4010」や「HITAC 8000」シリーズを売り始めましたので、そちらの機種を担当しました。

当時の「HITAC 5020」のソフトウェア開発は研究所の優秀な人たちがやっていて、私たちのような初心者はテストを担当するというすみ分けでした。

――どうやってソフトウェアを勉強したのでしょうか?

最初に、ソフトウェアOSのマニュアルを読み込みました。5020は国産ですから、取りあえず日本語のマニュアルはあって、ホッとしたのを覚えています。

もう一つは、システムの保守業務を通してコンピュータを学びました。当時のハードウェアはデイリーメンテナンスが必須で、保守担当者はCE(コンピュータ・エンジニア)と呼ばれカッコ良かったです。IBMの人などは背広を着てCEルームで待機していましたから。

 

日立にもCEがいて、日々活躍していました。日立にはCEを教育する学校があり、私はCEと同じ教育を受ける機会を得ました。ですから異動早々にハードウェアとソフトウェアの両方を勉強させてもらったわけです。期間は約6カ月でしたが、後々実務に応用できるなど、いい経験になりました。

HITAC5020については、東京大学(以下、東大)でのプロジェクトが思い出深いですね。量子磁束パラメトロンの研究を手掛けた偉い教授などが東大にコンピュータセンターを設立し、研究者が自由に使えるようにしました。そのシステムの構築と運用サポートに携わりました。そこでは数値計算や科学計算といった研究用プログラムが実行されました。

当時のコンピュータセンターのマシンは頻繁にエラーを起こして止まるのです。その原因を調べて、応用プログラムの不具合なのか、システムの不具合なのかを判断していました。また、ハードウェアの論理不良もよく見つかりました。そのプロジェクトの時はCEルームに常駐し、待機中はマニュアルを読み込んで、知識を身に付けていましたね。

大阪万博の各種システムを「検査」

――ソフトウェアテストやQA業務に関して、印象深いエピソードはありますか?

8000シリーズが初めて出た頃に、ソフトウェアテストを経験したメンバーが集められました。急に呼ばれて、「明日から大阪万博のシステム担当だ」と言われました。1970年5月に万博が始まるので、その前年の夏のことです。この時私は後述する「ソフトウェア工場」のソフトウェア検査課に所属していました。

駆り出された理由は、要するにシステムを専門にテストおよび検査する人間がいないからです。システムを作った開発者たちもテストしていましたが、体系的なテスト、特にシステムテストは未熟で十分にできていなかったのです。

――万博のシステムで思い出に残るシステムとは具体的に?

メインは入退場者管理システムでした。それに加えて、イベントシステム、異動電話やテレビ電話を使った迷子探しシステム、落とし物管理システム、さらには、駐車場への自動誘導システムなど、当時としては最先端のオンラインシステムを手掛けました。開発は、日本電信電話株式会社が一次受け、日立は二次受けでの共同開発でした。

特に入退場者管理システムは面白かったですね。JRの自動改札機のように、通過するとカウントされる仕組みでした。しかし、入場と退場の数が最終的にゼロになるはずなのに、実際にはなりません。人が重なって通ると1人としかカウントされないとか、そういった誤差が出てきます。ですから、それを補正する数式を作って対応したのです。

ただし、補正のためのパラメータ設定が難しく、うまく処理できないと「会場に何百人も残っている」という表示が出て、閉館後の夜に警備員が探しに走り回ることもありました。万博ではこのように、一般のシステムではなかなか経験できないことが多数ありました。

話は前後しますが、万博に向けたシステム開発が活況を呈している1969年2月に、日立はソフトウェア開発専用組織を工場として設立しました。ソフトウェア専門の事業部門は世界初だと思います。当時は「ソフトウェアって何だ」と誰も説明できない時代で、「ウェアだから日立はシャツでも作るのか?」なんて笑い話もありました。

ソフトウェア事業部門の立ち上げの背景には、IBMの「アンバンドル政策」がありました。アンバンドル政策とは、ハードウェアとソフトウェアの価格を分離するというものです。それまでソフトウェアはハードウェアの“おまけ”的な扱いでしたが、コンピュータを買った人たちが徐々にソフトウェアの価値に気付き始めた時期でした。そこでIBMが大きな転換に踏み切ったのです。これが世界の潮流となり、ソフトウェアが独立して収益を上げるビジネスモデルとして確立していったのです。

そこで日立は工場の中に「検査部門」を作りました。今でいうソフトウェアの第三者テスト部門、即ち品質保証部門ですね。最初は課レベルの組織で100人程度です。OSを担当するチームと、アプリケーションを担当するチームの二つがありました。事業規模としては、前者の方が圧倒的に大きかったと思います。

日本のソフトウェア品質マネジメントを海外に発信

――この検査部の設立は、日本のソフトウェアテストの歴史の中でも画期的なことだったのでは?

そうですね。当時、外部から品質を管理するという、第三者によるソフトウェアテストの考え方を導入していたのは、日立と株式会社東芝くらいではないかと思います。

このソフトウェアテストは、後に米国の研究者、マイケル・A・クスマノ(以下、クスマノ)氏にも高く評価されました。彼は論文や、「ソフトウェア企業の競争戦略」という本の中で、私たちの活動を評価してくれました。

評価されたポイントは、属人性からの脱却です。それまでのソフトウェア開発はエンジニア個人の力量に依存していて、全て1人でこなしていました。けれども、私たちは第三者による評価や全体のマネジメントという思想を導入しました。クスマノ氏は私たちの元へ来て、インタビューもしてくれました。

――そうした経験を、その後どのように展開されていったのですか?

1980年代前半、それまでの経験を整理して一般財団法人日本科学技術連盟の「SPCシンポジウム」で発表する機会がありました。タイトルは「ソフトウェア検査の実際」でした。実は社内の別の人が発表する予定だったのですが、仕事の都合で準備できずに、急遽私が担当することになったのです。まだワープロもない時代で、論文を書くのは実に大変でした。清書だけは専門の部下を付けてもらいました。

発表後の質疑応答で、検査にかかるコストについて質問されました。最初は企業秘密だからと答えを避けていたのですが、聴衆からは「日本のために話せ!」という声が繰り返し上がりました。主に大学の学者たちですね。その熱量に押し切られて、開発コスト全体の約1割弱という具体的な数字を公開しました。その結果、次から次へと質問攻めにあって時間切れとなったため、質問を紙で受け付けて、後日回答としましたが、大変な作業になりました。

幸運にもこの論文は参加者の投票で1等賞を頂き、連盟の雑誌にも掲載されるなどして多くの方々に注目していただきました。

その後、ソフトウェアテストの黎明期から共に奮闘してきた株式会社NTTデータ、東芝、オムロンをはじめ、多数の企業の方々と一緒に海外の研究者と意見交換を行いました。日本のソフトウェア開発の開発手法や品質管理手法を世界に発信する、そんな勢いのある時代でした。大学の先生方は「日本の品質管理手法は絶対に勝てる」と大いにあおられ、この活動は長く続きました。

これらの活動で得た数多くの知見は、SEA(ソフトウェア技術者協会)、JUSE(日本科学技術連盟)、ASTER(ソフトウェアテスト技術者振興協会)など、数多くの団体の活動に生かされていったと思います。これらの活動が人脈を広げ、私の貴重な財産になりました。

技術伝承が課題

――最後に、未来への提言をお願いします。

私が常に言い続けてきたのは、ソフトウェア開発には「最適なプロセス」「トレーニングされた要員」「適切なツール」「品質の監視・改善の仕組み」が必要だということです。これはわれわれの先輩方が啓蒙した、今でも変わらない原則だと考えています。

今でも2011年に発表したソフトウェア品質保証の方法論に関するプレゼンテーション資料を、人材教育などに使いたいという問い合わせがあります。でも不安になるのは、その背景にある考え方が理解されているかという点です。

ソフトウェアは、ハードウェアのように工場の生産体制が決まったら何十年も同じことを続ける品質管理とは異なります。プロジェクトごとに新しい取り組みが必要になります。ソフトウェアやシステムの特性を理解し適切に対応することが重要なのです。

また、技術伝承の問題も深刻です。新しいスキルはみんな勉強するし、ダボハゼのようにポンポンと飛び付きます。一方で、過去に苦労して取り入れた貴重な技術を忘れてしまい、同じ失敗を繰り返しています。

新しい技術への対応や挑戦は必要ですが、過去の経験や知見を軽視する傾向があります。ソフトウェア業界は技術伝承が下手です。学術論文を見ると一目瞭然で、ハードウェアの論文には膨大な参考文献があるのに、ソフトウェアの論文には少ないように思えます。過去の蓄積を捨ててしまうように思えて心配です。

近年の例で言えば、コロナ禍の管理システムでトラブルが多発し、使い物にならなかったという事例がありました。これは入力データの基本的なエラー・チェックができていないために、入力されたデータの信頼性が保証されず、現場では使い物にならなかったというものです。初歩的な論理ミスが原因でした。本当に情けない話です。

ソフトウェア開発においては、基本なプロセス、論理形成やQAの考え方は、時代が変わっても最重要であることは間違いありません。

NARAコンサルティング代表奈良隆正さん

1962年、株式会社日立製作所・日立工場入社。主に電機(回転機系)の検査と設置・試運転を担当。1965年、コンピュータ部門に異動し、ソフトウェア品質保証業務に従事した。第三者検証の技法と品質評価技法の開発など、ソフトウェア品質保証体系の基礎を確立した。1985年に情報システム開発部門に異動し、ソフトウェアテスト技法の開発と普及、ソフトウェアプロセス改善の推進、プロジェクトマネジメント技法の開発と普及を全社同時並行で展開した。1999年に関連会社に転属、2007年に退社。NARAコンサルティングを立ち上げ、ソフトウェア開発のコンサル業務を推進している。

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