ビジネスNEW
【連載】品質をめぐる冒険: 書道家・根本みき氏「一枚の紙に対して正直であること」

書道家根本みき氏
日本名水の書画で、心に光を—。福島県白河市出身。8歳より書道を始め2015年に上京と同時に独立。『書道と水墨画で、人々の心に光を灯す』をテーマに活動し、2025年より「日本の名水を巡る旅」をスタート。日本各地で自らくんだ名水を用いて墨をすり、水が持つエネルギーを一筆一筆に宿している。オーダーメードから個展作品を含め、これまでに国内外へ提供した作品は600点以上。大手企業の映像協力や、沖縄市観音寺へ3m四方の天井画奉納など、活動は多岐にわたる。
ソフトウェア開発に携わっているエンジニアにとっての品質を問われれば、ISO/IEC 25010などで規定されている品質特性について答えられる方は多いと思います。
一方、いわゆる「アート」に対する品質を問われたなら、その答えは人によって千差万別でしょう。
ISO/IEC 25010では、利用するユーザーの立場からの「満足性」を評価する副特性として「快感性」や「快適性」が規定されています。
そこで今回は、ベリサーブが発行する季刊誌である「ベリサーブナビゲーション」の表紙に揮毫(きごう)いただいている書家の根本みき氏に、書家に至るまでの生い立ちや経緯、作品が評価されるためにプロとしての技術力をどのように身に着け、品質の高い作品が書けるようになったのかについて伺いました。
負けず嫌いを発揮し、メキメキと上達
──まず、書道との出会いについて教えてください。
きっかけは習字が好きだったからではなく、友だちと一緒に小学校から帰宅したかったからです。私は福島県白河市出身で、田舎の地域で育ったため、下校時に同じ方角へ帰る友だちが一人もいなくて寂しい思いをしていました。
ある日、皆がぞろぞろと集団でどこかに向かっているのを見て、「どこに行っているの?」と聞いたら「書道教室」だと。それで母にお願いして、友だちと一緒に帰りたい一心で習い始めたのです。
──それが小学3年生のころですね。始めてみていかがでしたか?
通っていた教室の先生のお子さんが同級生で、習字がすごく上手だったんです。それで負けず嫌いの気持ちがふつふつと湧いてきて。すぐに金賞や銀賞なら取れるようになったのですが、金賞の上に「特選」があって。金賞の札を貼られているだけでは全然満足できず、特選という文字がすごくキラキラして見えたんですよ。「絶対に次は特選を取る」と誓い、5〜6年生はずっと特選を取ることができました。
──相当練習されたのですか?
書道教室でかなり練習していました。小さい頃から集中力はあったようで、最後までずっと教室に残っていました。帰りたいとは思わず、「仕上げたい」という気持ちが強かったですね。
賞を取りたいこともありましたが、書道教室には検定があって、級や段を取得できます。そこでも上を目指したくて、負けず嫌いが発揮されていました。上達は早い方だったと思います。
──書道教室はいつまで通ったのですか?
高校3年までずっと続けました。大抵は皆、中学に入ると辞めていくのですが、私は一度始めたら辞められない性格で。小学校で初段くらいには到達していたのですが、学生の中で最高段位の「特待生」(※編集部注:書道団体や会派によって異なる)を取るまではやめられないと思ったからです。
中学の部活動で器械体操をやりながら、部活が終わると書道教室に通って。結果的に、高校3年の時に特待生を取得したのですが、そこで目標がなくなってしまい、やる気がプツッと切れてしまいました。
書道から一度離れるも……
──目標を達成して燃え尽きてしまったと。
そうですね。それと高校卒業後の進路を真剣に考える時期で、カフェ運営に興味を持っていたため、飲食の資格を取ろうと東京の栄養専門学校に進学しました。でも、授業を受けているうちに「何か違う」と感じました。さらに、住んでいたアパートで怪奇現象が続いて……。プライベートがつらすぎて、3カ月で中退して地元に戻りました。

──地元に戻ってからは?
高校時代にバイトしていた飲食店で働き始めました。その後、アパレル、精密機メーカーの工場、保険業と転々とし、友だちの紹介でホステスとして郡山で働くことになりました。これが人生の転機でした。
当時、昼間の仕事は時給800円くらいだったので、最初は2000円という金額に満足していました。ただ、場内指名が増えてナンバーツーまでいった時に、ボーイから「なんで本指名を取らないの? もったいない」と言われました。さらに、姉が「ナンバーツーでいいやと思っているうちはナンバーワンになれない」と。ナンバーツーであることを自慢したはずが、逆に発破をかけられて、それで本気を出したんです。自分で営業して、どんどん売り上げが上がっていき、ナンバーワンになりました。恐らくこの時に起業に必要な要素を学んだのだと思います。
──そんな生活から書道を再開されたきっかけは?
「あなた、書道が得意なんだから、書道の先生になれば?」という母の一言でした。実は20歳の頃にも言われていたのですが、その時は響きませんでした。でも、夜の仕事を続けていた24歳で改めて言われて、「やってみるか」とスッと入ってきたんです。それで高校まで通っていた書道教室にもう一度弟子入りしました。
当初思い描いていた将来構想は、田舎の家の一角に書道教室を開いて小さくやるイメージでした。でも、当時東京にいた姉の知人が経営者で、「教室だとちょっと地味だね。みきの色を出した書道をやった方がいいよ」と指摘されました。
「え、みきの色?」と思いましたが、東京に行ったらこういうすてきな発想を持った人たちと一緒に働き、仕事の幅が広がるんだなと感じました。それでもう後に引けなくなり、店のお客様にも「辞める」と宣言し、お金をためて2015年、25歳で上京しました。
ある経営者の一声で目がさめる
──上京後はすぐに仕事があったのですか?
開業届を出して、実績ゼロですが「書道家」と名乗りました。最初の仕事は福島のお客様からのオーダーメードでした。その後も「これを書いてほしい」という依頼は増えていきました。一方で、個展を開いたり、Facebookで作品を公開したりすると、そちらもまあまあ売れました。書道教室もすぐに開けました。
──出足は順調だったのですね。
いえ、家賃の高いマンションに住んでしまって順調とは言えませんでした。また、お金の使い方を知らなかったんです。「自己投資」という言葉がかっこよくて、ホームページ制作や起業塾にバンバン注ぎ込んで、開業資金200万円があっという間になくなりました。
その後もいろいろとあって、最終的には銀行の残高が2万円になってしまいました。姉に電話したら、「自分で稼げるんだから、甘えずに自分で稼ぎなさい」と。それで一時的に銀座のクラブで働きました。でも、書道家になると宣言して上京したのに、これでは駄目だと痛感し、早くお金をためて辞めようと思いました。
──そういったどん底から、どう立ち上がったのですか?
ある経営者にドライブに連れて行ってもらったとき、「このまま福島に帰る? 今すぐ送っていくよ」と言われました。その方が私の幸せのためかもしれないと。確かに、実家に帰ったらすぐにお風呂に入れるし、ご飯も出てくる。「あれ、生きられちゃうな」と思ったんです。でも、「帰らない」と泣きながら断りました。それまでは正直、ぬるま湯というか「いけるだろう」という根拠のない自信でやっていました。でも、どん底で全部なくなったとき、初めて本気になったんです。そこから頭を使って、「どうしたら書道家として生計を立てられるか」を必死で考え始めました。
地元・福島を巡る「書の旅」が転機に
──書道家としての地位を確立するため、どのように行動されたのですか?
起業セミナーに行ったり、人に会って経営を教えてもらったり。筆を持っている時間よりも、PCとにらめっこしている時間の方が長かったです。
一方で、水墨画も始めました。書道だけでは勝てないと思って。同じ書道教室に通っていた仲間の紹介で千葉玄象先生に出会いました。全国水墨画協会会長の方で、技術はもちろん、その人柄に憧れて、「ああいう大人になりたい」と思える先生です。

そして、2019年に「書の旅」を始めました。これは、福島県全59市町村を巡り、そこで目にした景色や感じたことなどを元に作品を書き下ろすという企画です。東日本大震災の影響もあって、東京に来てからは「福島って今どうなの?」とよく聞かれていたのですが、自分でも分からないことが多く、福島のことをもっと知りたい、話したいなと思ったのがきっかけです。
現代版・松尾芭蕉というブランディングで福島の各地を旅していると、地元メディアが興味を持ってくれて、取材を受け、新聞掲載されることが増えました。そのおかげで仕事も増え、看板制作や商品ロゴの依頼が来るようにもなりました。
──書の旅での印象的な出会いはありましたか?
福島県金山町のお豆腐屋さんの言葉が鮮明に残っています。新潟県のすぐ隣であるにもかかわらず、「福島」という地名を出すだけで売り上げが激減したと、怒りと悲しみをぶつけてこられました。目付きが違っていて、「どうにかしてほしい」という思いが伝わってきました。
また、震災によって家を失くした方々にもお会いし、「10年近くたったのに、福島はまだこんな状態なんだ」と衝撃を受けました。福島のためにも、東京で頑張って恩返ししていきたいと強く考えるようになりました。

書の品質を決める「余白」と「線」
──開業して10年、書家としての技術レベルはどう成長しましたか?
東京に来た時はプロフェッショナルとしてのレベルの違いにがくぜんとしました。福島では「上手」だと褒められていましたが、ある方に「下手」とすごく言われて、「そんな字でお客さんに渡しているの?」とまで……。悔しくて、そこからまた負けず嫌いのスイッチが入りました。朝方4時まで書いてから寝るような時期もありましたね。
それと批判を受けることも多かったです。若くて女性というだけでいろいろと言われる業界なので。でも、「言われないくらいうまくなろう」と猛練習しました。上京して3年目くらいまでは本当に必死でした。
──具体的にどのような技術が成長したのでしょう?
端的に言うと、「習字」から「書道」になったのだと思います。1番のキーワードは「余白」です。「白で黒を作る」と言われるのですが、黒が美しく見えるのは白の存在です。ですから、白がすごく映えるように鍛えました。書道の稽古でも先生が「白が大事なんだよ」と繰り返していました。
書の品格は余白と、線一本で決まると考えています。文字は線の集合体ですから、線一本をどう表現するか、余白をどう置くかが重要です。見る人が見れば、書道の基礎を学んでいるかどうかは一瞬で分かります。それを示すのが余白の使い方と線一本なのです。
──技術以外に大切にしていることはありますか?
人間性ですね。「売りたい」「お金を稼ぎたい」という気持ちは、線と余白に出ます。逆に、その人の清廉さや潤いも出ます。技術力がある人はたくさんいますが、実は技術だけで書くと表面的な書になってしまいます。人の心を動かすには、書き手の心や人生、人柄が必要だと感じます。きれいな書は書けても、心を動かす書という意味では、やはり人間性が必要だと感じています。

他方で技術力を高める鍛錬も不可欠です。例えば、賞を取ったから終わり、師範を取ったから練習を止めるというようでは、品質は担保されないどころか、感覚が鈍って質は落ちていきます。自己表現は自由で良くても基礎の学びから外れてはいけません。
なお、書道や水墨画の良いところは、スポーツと違って適齢期がなく、ずっと上達する点です。80歳になったらどういう書を揮毫しているのだろう、という面白みがあります。
──品格という観点でも人間性が重要だと。
はい。技術は最低限必要ですが、それにプラスして人間性が品格につながると思います。心が荒(すさ)んでいたら、人の心を動かし品格のある「書」にはならないのではないでしょうか。
──根本さんにとって、品質とは何でしょうか?
一枚の紙に対して本当に正直であることだと思います。今まで培ってきた技術の全て、今の私の全てを正直にそのまま出し尽くすこと。お客様の依頼なら、なおさら誠意を持って心を込めて書くことこそが品質につながるのだと思います。
──質の高い仕事とは、どういうことだと思われますか?
細部まで意識を行き届かせることです。「見た目よければ全て良し」といった表面的な仕事をするのではなく、例えば、墨をする際に使う水にしても、私は作品を書くとき、実際に名水をくみに行って、その水で墨をすります。作品を見る人にはそれが名水なのか水道水なのかは分かりませんが、そこまで意識を行き届かせて作品にする。目に見えないところにも心を込める、気を配ることが大切だと思います。
──なぜそこまで見えない部分にこだわるのですか?
個展に来てくださるお客様を見ていて思うのですが、人が感動するのは表面だけではないんです。書道は表面的に見えますが、人の心に作品に込めた思いを届けるには、目に見えないところに意識を向けることが重要なんだと考えるからです。
見えないし、分からなくても全然いいのですが、その心持ちがあるかどうかで書の表情はすごく変わります。例えば、企業に納品する作品であれば「この会社が発展してほしい」という思いを込めて書かないと駄目です。そこは、いつも大事にしています。

──ありがとうございました。

書道家根本みき氏
日本名水の書画で、心に光を—。福島県白河市出身。8歳より書道を始め2015年に上京と同時に独立。『書道と水墨画で、人々の心に光を灯す』をテーマに活動し、2025年より「日本の名水を巡る旅」をスタート。日本各地で自らくんだ名水を用いて墨をすり、水が持つエネルギーを一筆一筆に宿している。オーダーメードから個展作品を含め、これまでに国内外へ提供した作品は600点以上。大手企業の映像協力や、沖縄市観音寺へ3m四方の天井画奉納など、活動は多岐にわたる。
この記事は面白かったですか?
今後の改善の参考にさせていただきます!

















































-portrait.webp)
































