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【連載】石黒邦宏の「日米デジタル論考」:歴史的論文「なぜソフトウェアが世界を飲み込むのか」から13年

【連載】石黒邦宏の「日米デジタル論考」:歴史的論文「なぜソフトウェアが世界を飲み込むのか」から13年

アンドリーセン氏の予言

初めて米国で仕事をしたのが1999年。それから今年で25年、四半世紀が経った。

感慨深いものがあるかというと、実はそんなこともない。当時はドットコムバブルの真っ最中で、どこもかしこもお祭り騒ぎ。でも、すぐにバブルが弾けて、この間まで渋滞で全然進まなかった高速道路がスカスカになったのも懐かしい思い出だ。

その間、北米だけではなく、日本の開発案件にも携わってきたわけだが、他でもないインターネットの普及により、新しい言語やフレームワーク、開発ツール、さらにはアジャイルのような開発思想について、距離や時間、言語の違いによる障壁を感じることはほとんどなくなった。北米と日本の開発スタイルの違いについて、いろいろな議論を見ることがあるが、自分の実感としては、国の違いよりもプロジェクト間の差異のほうがはるかに大きい。米国でもしょうがないプロジェクトがたくさんあったし、日本で最高の開発体験をしたことは何度もある。

米国との比較で考えると、国や文化の違いよりも、言論空間の違いをより強く感じる。新しい技術が出てきた時に、当然のことながら、否定的な意見もあれば、肯定的な意見もあるわけだ。英語圏では考えられる限りと言っていいくらい、さまざまなヴァリエーションの、ありとあらゆる言論が繰り広げられる。英語圏での言論のボリュームは、日本語圏でのそれに比べて圧倒的だ。

大量の言論の洪水の中で、時には注目を浴び、時代を切り取る言説が生まれることがある。そうした言説は、皆の記憶に残り、ある種の文脈を形成していくことになる。

今からさかのぼること約13年前、2011年8月のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)に、「なぜソフトウェアが世界を飲み込むのか」(Why Software Is Eating the World)という論文が掲載されたのを覚えている人もいらっしゃるのではないだろうか。Webブラウザ「Netscape」の開発者および創業者として知られ、現在はベンチャーキャピタリストとして活躍するマーク・アンドリーセン氏が書いたものだ。

ITと直接関係がないと考えられている業種でも、今後ありとあらゆる産業で、ソフトウェアがその中核を担うんだ、その流れに対応できない企業は淘汰されるというメッセージは、当時センセーショナルに受け止められた。書店はAmazonに、映画はNetflixに、CDやレコードはAppleやSpotifyに置き換えられる。それだけではなく、自動車や、石油、ガスの採掘、農業、金融、医療、教育、国防などもソフトウエアの革命の波からは逃れられないという主張は、13年後の今読むと「当たり前のことをなぜ、わざわざ論文にしたのだろうと感じるのではないだろうか。それほどまでに彼の論文は未来を言い当てていたのだ。

まさにアンドリーセン氏が主張したように社会は激変し、多くの企業が変化に対応できずに消滅していった。アンドリーセン氏の論文にもある、「2001年、Borders社は、オンライン書籍販売は戦略的ではなく重要ではないという理論のもと、オンライン事業をAmazonに譲渡」し、その後経営破たんした。

米国IT業界の特徴は、流行りものに敏感だということである。特にシリコンバレーに関していうと、新しい技術に対しては盲目的とも思われる肯定感があるように感じる。それは単に新しもの好きだということだけではなく、アンドリーセン氏が予言したように、新しい技術や潮流を軽視して消滅していった過去の企業が頭をよぎるからではないだろうか。

ハーバード・ビジネス・スクールの教授だったクレイトン・クリステンセン氏が、著書「イノベーションのジレンマ」の中で、産業の枠組み自体を壊してしまうほどの技術革新を「破壊的イノベーション」と呼んだ。アンドリーセン氏が指摘したのは、インターネットや、ソフトウェア、スマートフォンといったテクノロジーは、単にある特定の業界の枠組みを破壊するだけではなく、あらゆる業界に対して横断的に「破壊的イノベーション」を引き起こす、いわば「業界横断型の破壊的イノベーション」だということだった。

生成AIは世界を救うのか

なぜそんなことを考えたかというと、現在、米国のIT業界は生成AIを「業界横断型の破壊的イノベーション」ととらえているように思えるからだ。米国で行われているカンファレンスの多くで、どう考えてもあまり生成AIと関係ないのではという分野でも、必ずと言っていいほど、生成AIのセッションが行われている。

近年の新しい技術では仮想通貨やWeb3などが思いつくが、明らかに生成AIの潮流はそれらとは違う。生成AIを活用することで、これまで人間が手作業で行っていたさまざまなことがAIで代替できる。要は、身も蓋(ふた)もない効率化を実現できるわけだ。これがまさにアンドリーセン氏が指摘した「ソフトウェアによる身も蓋もない効率化」と重なるわけだ。

昨年6月にアンドリーセン氏が新しい論文を発表した。その名も「なぜAIが世界を救うのか」(Why AI Will Save the World)。題名を見てわかるように、明らかに13年前の論文「Why Software Is Eating the World」の文脈を引き継いでいる。

リンクを貼っておくので興味がある方はぜひ論文を参照いただきたい。大まかに言うと、AIはかつてソフトウェアがそうだったように、私たちが大切にしているもの全てを改善できるし、懸念されているリスクよりも利益のほうが大きいといった主張をしている。

アンドリーセン氏は彼らしい真面目さで、「AI は私たちの仕事を全て奪ってしまうのでしょうか?」といったさまざまなAIに関する懸念について、一つ一つ取り上げ、「いや、そんなことはないんだ。これまでも新しい技術がいろいろな課題を生み出したけれども、人類はそれを解決してきたではないか」と、得られるベネフィットのほうが大きいことを主張した。

ChatGPTで盛り上がっているさなかに発表されたこの論文は、当然ながら英語圏で大きな反響を巻き起こした。肯定的な意見、批判的な意見それぞれが山のように出たが、全体としてはやや批判的な意見のほうが多かったように思える。アンドリーセン氏の言い分もわかるが、あまりにも楽観的(Optimistic)ではないかという声が批判的意見の代表例だった。

ここからが、英語圏での言論のダイナミズムというか、文脈を感じられる展開になっていく。アンドリーセン氏はこうした批判的な意見に対して、4カ月後の23年10月に、新しい論文を書いて返答している。その名も「技術-楽観主義宣言」(The Techno-Optimist Manifesto)。楽観的(Optimistic)だという批判に対して、思い切り開き直った。「楽観的だが、それが何か?」というわけだ。

この論文がネットに公開された翌日、さっそく技術系ネットメディアの「TechCrunch」に「マーク・アンドリーセンが最後に貧乏人と話したのはいつだろう?」という記事が掲載された。そんなに技術が世界をよくするなら、なぜいまだに世界に貧しい人が溢れてるのだろう? サンフランシスコの街中にいるホームレスを見たことがないのか? お前が技術系スタートアップへの投資で大金持ちになったのを知っているぞ。お前が言っていることは単なるポジショントークなんじゃないか? という、かなりストレートな批判だった。

この批判に対して翌週、アンドリーセン氏は一緒にベンチャーキャピタルを運営しているベン・ホロウィッツ氏と、ポッドキャストでこの批判について取り上げた。TechCrunchの批判に対しても楽観的に取り上げているので、興味がある方はぜひ聴いてみてはいかがだろう。

生成AIに関してさまざまな意見がある中で、こうして13年前の論文を背景にした、ある種の文脈が形成されていくさまは、やはり英語圏での言論の圧倒的なボリュームを感じさせるものだった。日本と米国を含む英語圏を比較した際に、この点だけは明らかに異なる。少しうらやましいと思う点かもしれない。

最後に、23年12月、同じくTechCrunchに掲載された文章を紹介して本稿を終わりとしたい。

「AI isn’t and won’t soon be evil or even smart, but it’s also irreversibly pervasive」

ちょっと長い題名だが、記事の内容も勘案して意訳してみよう。

「AIは今時点で邪悪なものではないし、近い未来に邪悪になるものとも限らない。ひょっとすると、皆が言うほど賢くならないかもしれない。しかし一つだけ確実に言えるのは、決してAIがない世界に逆戻りすることはないということだ」

そう、決してAIがない世界に逆戻りすることがないのであれば、どういう世界を望むのか、我々は考えなければならない。世界はいまだに手探りである。

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