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【連載】石黒邦宏の「日米デジタル論考」:サティア・ナデラがマイクロソフトで起こした静かな革命

【連載】石黒邦宏の「日米デジタル論考」:サティア・ナデラがマイクロソフトで起こした静かな革命

イノベーティブな企業に返り咲いたマイクロソフト

“生成AI元年”となった2023年、OpenAI、NVIDIAと並んで、その存在感を示した企業がある。そう、Microsoft(以下、マイクロソフト)だ。

OpenAIが開発した「GPT-3」ベースの実用的なサービスを、傘下のGitHubからいち早くリリースしたのに続き、自社の検索サービス「Bing」で当時の最新版だった生成AIエンジン「GPT-4」を提供、さらにはWindowsやOfficeにも生成AIを組み込んでいった。近年のIT産業で最もイノベーティブな企業の一つと呼んでもいいだろう。業績も目覚ましく、24年1月にはAppleと世界の時価総額ナンバーワンの座を争うまでになった。

そのマイクロソフトの躍進を実現したのが、14年にCEO就任のサティア・ナデラ氏だ。

マイクロソフト——。1975年にビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏によって創業。今さら説明の必要はないだろう。全世界のIT産業に多大な影響を与え、パーソナルコンピュータの普及の原動力となった企業である。

しかし、そのマイクロソフトも10年前、スマートフォン市場ではiPhoneおよびAndroidの後塵を拝し、検索エンジンの分野ではGoogleに遠く及ばず、もはやゆっくりと衰退していく企業と考えられていた。Bloomberg誌は当時、「世界で最低の仕事、それはマイクロソフトのCEO。なぜあなたはマイクロソフトのCEOになりたくないか?」という記事を書いたほどだ。

それから10年の月日をかけてナデラ氏はマイクロソフトの企業文化を変え、再びイノベーティブな企業に変革したわけだが、もちろんそれは簡単なことではない。

14年のCEO就任当時で約10万人、現在は倍以上の20万人超の社員を抱える巨大組織だ。その文化を変えるのは、地方都市1つ分の人口に匹敵する人々の考え方や行動規範を変えるのに等しく、想像を絶する仕事である。

ナデラ氏はどのようにして、マイクロソフトを復活させたのだろうか。そして、その手法には再現性があるのだろうか。彼自身の言葉をたどってみたい。

過小評価された新CEO

まず、ナデラCEOが誕生する前後の事情を改めておさらいしよう。

前任のスティーブ・バルマー氏がマイクロソフトのCEOを退いたのは、13年8月23日のことだった。次のCEOが決まらない状態での異例の退任だった。そして、2週間後の9月3日、CEO不在のままNokiaの買収計画が発表される。買収金額は約72億ドルに上った。

当時Nokiaは世界最大の携帯電話メーカーで、従業員は3万2000人。他方、マイクロソフトは約10万人。自社の3割近くの人員を抱える企業の買収劇だった。この買収は依然としてマイクロソフトがモバイル市場におけるWindows Phoneの普及を諦めていない意思表示でもあった。

その時のNokiaのスティーブン・エロップCEOがマイクロソフト出身だったこともあり、ひょっとするとエロップ氏がマイクロソフトのCEOになるのでは、といった憶測も流れた。しかし、年が明けた14年になってもCEOの後任は決まらない。バルマー氏の退任から約5カ月後の14年2月4日、ついにナデラ氏のCEO就任が発表される。

それまでに外部人材の名前が何人も挙がっていたが、マイクロソフト社内からの選出だった。正直に言って、当時誰もナデラ氏には期待していなかったように思える。その証拠にビジネス誌のFortuneは、17年の「最も過小評価されているCEO」にナデラ氏を選んだほどだ。

現実を直視する勇気を

CEO就任後、最初にナデラ氏が注目を浴びたのは、14年4月24日に行われた四半期決算報告での発言だった。

Courage in the face of reality (現実を直視する勇気)」という、ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェの言葉を用いて、マイクロソフトはこれまでと違った未来を受け入れるのだと宣言した。そして、翌日にNokiaの買収完了の発表をする。ただ、この時点では、これまでと違った未来が何を指すのか、明らかではなかった。

Nokia買収完了の2カ月半後、CEO就任から数えること5カ月後に、全社員向けレターが初めて送られる。そのレターの最後のセクションは「Our Culture(私たちの文化)」とされており、再びニーチェの言葉が引用されている。少し長くなるが、ここでそのレターの末尾部分を見てみよう。

A few months ago on a call with investors I quoted Nietzsche and said that we must have "courage in the face of reality." Even more important, we must have courage in the face of opportunity.

数カ月前、投資家との電話会議で私はニーチェを引用してこう言いました。われわれは「現実に立ち向かう勇気」を持たなければならないと。さらに重要なこととして、チャンスに直面したときの勇気を持たなければならないと。

We must each have the courage to transform as individuals. We must ask ourselves, what idea can I bring to life? What insight can I illuminate? What individual life could I change? What customer can I delight? What new skill could I learn? What team could I help build? What orthodoxy should I question?

私たちの一人一人が個人として変革する勇気を持たなければなりません。どんなアイデアを実現できるのか? どのような洞察を持って世界を照らし出すことができるのか? どのように個々人の生活をより良くすることができるのか? いかにして顧客へ喜びを与えることができるのか? 新しいスキルを学ぶことができるのか? どのようなチームを作り出せるのか? これまで正しいとされていた価値観を改めて疑うことができるのか?

With the courage to transform individually, we will collectively transform this company and seize the great opportunity ahead.

一人一人が変革する勇気を持って、私たちはマイクロソフト全体を変革し、目の前にある素晴らしいチャンスをつかみ取りましょう。

敗北宣言からの大転換

ナデラ氏が引用したと思われるニーチェの言葉、「現実を直視する勇気」を、著書「偶像の黄昏」から引いてみよう。

「現実を直視する勇気が、結局は、トゥキディデスとプラトンの天性を分つのだ。プラトンは現実に対する臆病者であり、ーーしたがって理想(イデア)へと逃避するが、トゥキディデスは、自らを力ずくで意のままにする、したがってさまざまな事柄をも力ずくで意のままにするのだ……」『偶像の黄昏』 - フリードリヒ・ニーチェ、村井則夫訳

ここでニーチェは、現実の背後に存在する理想の世界としてのイデア論を展開したプラトンと、古代ギリシャの「戦史」を著したトゥキディデスを対比して、現実を直視する勇気がないがために、現実の背後にある理想を生み出したのだと、プラトンを激しく非難する。

ナデラ氏がここでニーチェの思想の徹底性を援用したかったのか、それともある種の衒学的趣味から引用したのかは分からない。いずれにせよ、ここでナデラ氏が指し示していることは明白だった。それは「われわれは敗北したのだ、まずその事実を認めよう」ということだ。このレターの翌週7月17日、Nokia部門を含む1万8000人(当時の全社員の14%)のリストラを発表する。マイクロソフトの史上初の敗北宣言だった。

その後、マイクロソフトは戦略を180度変え、勝ち目のない競争をすることを止め、自社クラウドサービスのAzureでLinuxを積極的にサポートし、iPhoneにOfficeを載せ、OpenAIへ多額の投資をしていく。敗北を受け入れ、顧客の生産性向上をマイクロソフトのミッションとして掲げたことによる大転換だった。

これ以降、ナデラ氏の社員向けレターおよび株主向けレターの最後のセクションは、必ず「Our Culture(私たちの文化)」とされている。

最後に、23年の株主向けレターを紹介して、本稿を終わりとしたい。

There’s never been a more important time to live our culture. The way we work and the speed at which we work are changing.

今ほど自分たちの文化を再認識しなければならない時代はありませんでした。なぜなら、私たちの仕事のやり方もその変化のスピードも急速に変化しているからです。

In an economy where yesterday’s exceptional is today’s expected, all of us at Microsoft will need to embrace a growth mindset and, more importantly, confront our fixed mindsets as our culture evolves. It will take everyday courage to reformulate what innovation, business models, and sales motions look like in this new era. As a high-performance organization, we aspire to help our employees maximize their economic opportunity, while simultaneously helping them learn and grow professionally and connect their own passion and purpose with their everyday work and the company’s mission.

昨日とんでもないと考えられていたことが今日では当たり前になったりしています。私たち全員が成長の考え方を受け入れ、さらにこれまでの固定観念を改める必要があります。新しい時代におけるイノベーション、ビジネスモデル、セールスがどのようなものなのかしっかりと認識するためには、たゆまぬ勇気が必要です。当社は、生産性の高い組織として、社員の収入を最大化できるよう支援するのと同時に、社員が専門的に学び成長し、社員自身の情熱や目的を、毎日の仕事や会社の使命と結び付けることを支援したいと考えています。

彼は決して「このサービスで世界をより良くします」「10億人以上の生活にインパクトを与えます」といった大言壮語は言わない。そこにあるのは、あくまで社員一人一人、顧客1社1社。今あなたの目の前にいる、切実な課題を抱えた、手を伸ばせば触れることのできる人々についてのメッセージなのだ。私たちは、ここに経営者としての誠実さ、さらにはある種の倫理観の結実を見ることができる。

このナデラ氏のメッセージを、皆さんはどのように受け止められるだろうか。

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