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【連載】冒険者の地図: 偶然だったテストとの出会い、その後のキャリアを一変させたメルカリ・福田里奈さんの生きざま(前編)

株式会社メルカリWork Engineering QA Engineering Manager福田里奈

東京・六本木にそびえ立つ、高さ238メートルの「六本木ヒルズ森タワー」。2003年4月の開業以来、その時代時代を象徴する新進気鋭の企業が入居してきた。

その超高層オフィスビルのエントランス付近で取材陣が待機していると、「こんにちは!」とよく通る声が聞こえ、スーツケースを転がしながらカジュアルな格好の女性がやってきた。株式会社メルカリでQAエンジニアリングマネジャーを務める福田里奈さんだ。

福田さんは、登録者数が1000万人を超えるスキマバイトサービス「メルカリ ハロ」の立ち上げ期から開発プロジェクトに参画している。元々はQAエンジニアとしてメルカリに入社したが、今やそれだけにとどまらず、チームメンバーなどのマネジメントの役割も担っている。

「サービスの品質保証を担当する者として、絶対に重大インシデントを出したくない」と仕事のポリシーを熱く語る福田さん。明るい笑顔の中にも厳格な職人気質がひしひしと感じ取れる。

高校卒業後の進路を決めるに当たり、何となく飛び込んだITの世界だったが、今では日本を代表するメガベンチャー企業でバリバリと働いているから人生は面白い。そんな福田さんのこれまでの足取りをたどってみよう。

「手に職をつけたい」

福田さんは福岡県北九州市生まれ。「福岡から出たことがない」と即答するほど生粋の九州人だ。今もなお福岡に住み続けている。記事の冒頭シーンはまさに東京本社へ出張でやってきたばかりのタイミングだったのだ。

現在の様子からはあまり想像がつかないが、幼少期は人見知りが激しく、母親について歩くような子だったという。そんな福田さんが変わり始めたのは小学生の半ばごろ。きっかけの一つが親族の勧めで合唱団に入ったことだ。

「声の大きさは間違いなく合唱のおかげです」と笑う福田さん。小学5年生から高校1年生まで続けた。幼い頃からピアノも習っており、高校では軽音楽部でバンド活動も経験。しかし、自身の才能を冷静に見極める目も持ち合わせていた。

「上には上がいることをすぐに受け入れてしまうんですよ。それに、私はそこまでのめり込むほどではなかったから、音楽のプロを目指す気持ちは全くありませんでした。ただ、将来は音楽関係の仕事に就ければいいなという程度の願望はありましたね」

高校時代、その先の進路を決める段階で「手に職をつけたい」と、漠然と考えるようになった。

「奨学金を利用していたこともあり、自立したい、自分で稼ぎたいという思いがありました」

それまでは主に美術・芸術系の活動をしていたこともあって、とある大学の写真科に目を付けた。ところが推薦入試で不合格に。本入試では再び写真科を受験するとともに、もう一つ願書を出したのが情報科だった。特段コンピューター関係に興味があったわけではなかったが、「情報なら音楽関係の仕事にもつながるかもしれない。エンジニアとしてそういう道もあるかも」と考えた。

結果的に両方とも合格したが、最終的に学費の負担が軽く、将来的に就職にも有利だと思われた情報科を選んだ。加えて、数学が得意だったという適性も福田さんの決断を後押しした。

「大学入学前後に自動車学校へ通ったのですが、教官に『私これから情報科に行くんです』と話したら、『大丈夫なのか?』って言われて」と苦笑する。当時はそれだけなじみのない学問だったことがうかがい知れる。けれども、この何気ない選択が、現在の福田さんのキャリアの礎を築くこととなった。

涙と挫折の日々

入学した頃、日本ではようやく世間にインターネットが普及し始めたタイミングだった。従って、福田さん自身も本格的にITに触れるのは大学からだった。

「自宅はまだ電話回線でインターネットにアクセスするADSLでした。プログラミングやHTMLも大学で初めて学びました」

大学では実技と座学があり、上級生になるほど実技の比重が増えていった。写真の現像や画像解析、CADの講習やハンダ付けなどと幅広く勉強し、スキルを身に付けていった。

短期大学と、その後に進んだ四年制大学の双方で卒業研究を実施。短大では「ダンスダンスレボリューション」のような足踏み式のゲームを開発。電子機器間でシリアル通信を行うための接続規格「RS-232C」を用いたモグラたたきゲームをVisual Basicで作った。四年制大学では音声認識ソフトを用いてロボットに命令するシステムを、機械科と電子科の学生と共同で制作した。在学中、基本的にはソフトウェアエンジニアになるための学びを積み重ねていった。

大学を卒業後、福田さんの社会人としての第一歩は、福岡の地元企業でのプログラマー職だった。受託開発が中心で、常駐先で働くこともあった。しかし、その道のりは険しいものだったという。

「1年目の最初から泣いていましたね。上司から『君は全然分かっていない』と叱責され、毎日のように1on1のミーティングがありました。Javaの本を読んで、まとめを提出する宿題も出されていて……。会社のトイレに駆け込むこともありました」

事務職の女性社員から「辞めないよね?」と心配されたこともあったが、「そんなことで辞めてたまるか!」と踏みとどまった。2年目はまあまあ楽しく過ごせたものの、3年目辺りには自分のコーディング能力に限界を感じ始めていた。

「自分が書いたコードを後から見ると本当に汚くて……。コードレビューをしてくれる文化もなければ、良い書き方を学ぶ本も見つけられませんでした。筋の良いコードが書けなくて、本当に向いていないと思うくらい嫌でした」

そんな状況でも5年間勤めたのは、出向による環境の変化があったことや、そこでの仕事がマッチしていたことが大きい。「飲みに一緒に行ってくれるような人もいて、人間関係は良かった」と福田さんは振り返る。今でも親交のあるかつてのメンバーがいるそうだ。

しかし、結婚を機に退職を決意。「当時は泊まりがけで働くことも珍しくなかったです。お風呂だけ先輩の家に借りに行って、また会社に戻ってずっと仕事。結婚して続けられる気がしなかったし、そこまで好きな仕事でもなかったので。辞める時はもう、プログラマーとしてこの業界には戻らないつもりでした」

思いがけない「テスト」との出会い

福田さんは退職して専業主婦になる予定だったが、ハローワークが運営する事務員の職業訓練コースに参加した。

そこで日商簿記3級を取得したり、ExcelやWordなどを学んだりした。訓練コースの一環としてインターンシップも経験した。そのインターン先、福岡市に本社を構えるシステム開発会社・Fusicが福田さんの人生を大きく変える転機となった。

「インターン先に事務職として行ったのに、『仕事がない』と言われて。プログラマーの職務経歴があることを伝えると、システムのテストしてほしいと頼まれました」

このテスト業務が、福田さんの第2のキャリアの始まりとなった。約2カ月のインターン終了後、「明日から専業主婦に戻る」と伝えると、「じゃあ、うちに来るか?」と声をかけられ、パートタイムの契約社員として働き始めることに。結果的に、産休・育休を挟みながら約10年間、Fusicでテストエンジニアとして従事することになる。

産休・育休から職場復帰して、福田さんは徐々に勤務時間を延ばしていった。会社も事業成長を続け、社員はどんどん増えていった。ただし、「エンジニアの数が増えてもテストに携わるエンジニアは増えず、最大で25人のエンジニアがいる状態でも、テストは基本的に私1人でやっていました」と福田さんは苦労を打ち明ける。

この会社で福田さんは新卒エンジニアの育成にも携わった。「新卒エンジニアは入社後に社内ツールを一つ必須で作成しなければならないというOJTがあって、そのテストを私が全部やっていました。1人に対して最大で200件のフィードバックをしたこともあります」と振り返る。

このようにして福田さんは、テストエンジニアとしての経験を積み重ねていった。しかし、当時は自分が正しくテストできているのか評価してくれる人もいない、孤立した環境だった。そのもんもんとした状況から抜け出すきっかけとなったのが、ソフトウェアテスト技法の勉強会との出会いだった。

初参加から2年後にはJaSST Kyushuの実行委員長に

「同僚のエンジニアたちが頻繁にイベント企画したり、勉強会を開いたりしていました。うらやましかったけど、子どもはまだ小さいし、時間もお金もなくて。でも、とにかくうらやましいから、何か行けるものはないかと探しました」

2012年夏、福田さんはある情報を入手する。ソフトウェアテストの専門家、秋山浩一さんが執筆した「ソフトウェアテスト技法ドリル」の出版に合わせて、福岡で勉強会が開催されることになったのだ。福田さんが足を運ぶと、その会の主催者がソフトウェアテストシンポジウム「JaSST Kyushu」の実行委員を務めていたことを知る。その縁で同年11月に鹿児島市で開かれた「ソフトウェアテストシンポジウム 2012 九州」にも参加した。

これで一気に火が付いた福田さん。翌2013年には「JaSST Tokyo」のシンポジウムに赴く。しかし、そこで感じたのはカルチャーショックだった。

「とんでもないところに来てしまったと思いました(笑)。みんな英語で話しているし、スーツ姿だし。キーノートは外国人だし。私はちっちゃい会社でテストエンジニアをしている身。名だたる企業の人たちがいて、場違い感があって隅の方にいました」

コミュニティー活動にハマったとは到底言える状況ではなかったと福田さんは首を横に振るが、それでも以降は継続的に足を運んでは、QA・テスト業界にどんどん溶け込んでいった。そこで知り合った人から若手テストエンジニア向けワークショップ「WACATE」にも誘ってもらった。

「行くと得られるものがあるから、また行ってみようかなと思いました。声をかけてくれる人の面倒見も良かったですね。後はSNSの存在も大きかったです。年に1、2回しか会えない方々ともオンラインでやりとりできたから。あの時にSNSがなければ今ここに私はいないと思います」

それを象徴する出来事がある。2014年、JaSST Kyushuの実行委員長が事情によって活動できなくなり、その年の九州開催が危ぶまれた時、SNSで業界の知り合いたちから「あなたしかいないんだよ」と背中を押された。こうして福田さんはJaSST Kyushuの実行委員の一人として、九州開催を進めていく立場になる。

「そこまで深い仲でもなかった人たちなのに担がれました」と福田さんは苦笑いするが、翌年から数年間、JaSST Kyushuの実行委員長を務めて、現在はJaSSTの担当理事となっている。

こうした課外活動だけでは物足りず、2013年には福岡で独自の勉強会も立ち上げた。2016年からはソフトウェアテスト技術者資格認定の運営組織「JSTQB」にも参画し、不定期に開催されるレビュー会などにも出席するようになった。

これらのコミュニティー活動は、福田さんの仕事にも多大な影響を与えた。

「会社には品質の専門家が誰もいなくて、自分がやっているテストが本当にテストなのかさえ分からない状態。相談できる相手もいないし、評価してくれる人もいなかったので、自分の知識は全部SNSやコミュニティーの人から教えてもらいました」

QA・テストの世界でもその存在が知られるようになった頃、福田さんは新たな一歩を踏み出す。およそ10年勤めた会社の退職だった。

(後編に続く)

株式会社メルカリWork Engineering QA Engineering Manager福田里奈

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